加曽利貝塚と考古学

加曽利貝塚は良好な人骨がみつかる場所として人類学会で常に注目されてきました。

下総国千葉郡介墟記」という文献に紹介されていて、古くから知られていたのです。

 

日本の考古学は明治時代、モースによる大森貝塚の発見から始まったといわれていますが、当時はまだ考古学というものが確立されておらず、人類学として研究されていました。

まだ貝塚から勝手に貝をもちだされるような時代でもありました。

 

大正時代になると、大山柏が考古学的視点で貝塚を研究しだしました。軍人としてフランスに留学した際、ヨーロッパの考古学を学んだ人です。測量調査の際に地点名をつけました。

 

大正13年には、北貝塚を東京帝国大学人類学教室が人骨採集のために調査しました。

この調査の参加者の中には、土器形式による年代配列(土器編年)の研究で知られている山内清男らがいました。(土器形式と年代配列の説明については→こちら

 

山内らは、土器形式による年代配列の研究を進め、その成果が全国的な編年網の確立につながり、加曽利貝塚は縄文土器編年の標準遺跡として広く知られるようになりました。

 

その後も多くの研究者が加曽利貝塚を訪れ、土器だけでなく様々な研究がすすめられました。

昭和30年代になると、宅地造成で破壊の危機に陥りましたが、市民主導による遺跡保存の運動がおこり、1万人を超える署名によって、保存が決定されました。(下記年表参照)

  

現在も調査や研究は続けられ、その成果を多くの方々に知っていただくために博物館では、企画展や講演会などを開催しています。

 

年表

西暦 保存の歴史
1887 上田英吉が加曽利貝塚を初めて学会誌で紹介
1907  東京人類学会が初めて発掘調査
1922

大山柏らが測量調査を実施、貝塚を4地点に区分

1924

東京帝国大学人類学教室による調査の結果、加曽利B式、E式が認識された

1937

山内清男が縄文土器の編年における加曽利B、E式の位置づけを設定

1958

明治大学考古学教室が発掘調査と地形の測量を実施

1962

開発による破壊の危機を受け、千葉市教育員会(武田宗久団長)が貝塚の重要性を確認するための発掘調査を実施、発掘調査区域を市民に公開

1963

保存運動が全国的に高まる中、日本考古学会が国・県・市に要望書を提出。国会での保存の議論は3年間続く

1963 千葉市が北貝塚55平方メートルを買収
1966 加曽利貝塚博物館が開館
1967 千葉市が南貝塚地区を買収
1971 北貝塚が国の史跡に指定
1977 南貝塚が国の史跡に指定